大伴家持の歌碑

更新日:2020年08月24日

大伴家持歌碑

大伴家持(おおとものやかもち)の歌碑

大伴家持歌碑碑文奈良時代の官人(つかさびと)であり、『万葉集』の歌人・編さん者としても知られる大伴家持は、天平18年(746年)、富山県高岡市伏木の越中国府に国司として着任しました。
天平20年(748年)の春、国司の務めである「出挙(すいこ)」(春に種もみを貸し付け、秋の収穫時に利息とともに回収する)のため、当時越中国に属していた能登国を視察・巡行。
家持は之乎路と呼ばれる峠道を越えて羽咋郡に入り、「気多神宮」を参拝しました。その際に羽咋の海の風景に感じ入り残した歌です。


「之乎路(しおじ)から 直越(ただこ)え来れば 羽咋(はくい)の海(うみ)
  朝凪(あさなぎ)したり 船梶(ふねかじ)もがも」


【現代訳】
志乎路の山道を越えてくると、羽咋の海は朝なぎをしている。舟と梶(櫂)があればよいのに。


歌碑は、市内有志らによる「羽咋市郷土研究会」が家持の万葉歌碑建設を計画し、昭和37年11月に千里浜海岸の砂丘上に設置したものです。
独特の形状は、家持が歌に詠んだ「船梶」をデザインしたもので、気多大社に向けて建てられています。
碑文の歌の文字は「寛永版万葉集」(1643年)から、「家持」の文字は「太政官符(だじょうかんぷ)」(太政官が役所や諸国に下した古代の公文書)に書かれた家持直筆の署名部分から取り摸刻したものです。

 

中西 進(なかにし すすむ)の歌碑

中西進の歌碑昭和4年、東京都生まれ。万葉集研究の第一人者で国文学者。文学博士、文化功労者、文化勲章受章。元号「令和」の考案者。

平成23年11月、中西先生が千里浜海岸を訪れた際に詠んだ歌です。
訪れたのは夜刻。満天の星と月光が照らす静かな凪の海岸に立ち、古代の羽咋を訪れた家持に想いを馳せ、月下の渚に長くたたずんで歌を詠まれました。
翌日、歌を記した書が披露され、中西先生の許可を得て、同年に家持歌碑のとなりに歌碑を建立しました。


大伴家持卿に和す
「靺鞨(まつかつ)の凍風(いてかぜ)去(さ)りし海原(うなばら)に
  漲(みなぎ)りわたる大和(やまと)の真春(まはる)」


【用語解説】
「和す」は、「親しむ、なごむ、ひとつになる」の意味。古代の能登・羽咋を訪れた大伴家持の心情に想いを寄せて歌を詠まれたことを題詞としています。元号「令和」の一字でもあります。
「靺鞨」とは、中国の隋・唐の時代に、中国北東部を拠点とした北方民族のひとつ。古代に「海東の盛国」と呼ばれた渤海国(698 ~926年)を建国したことでも知られています。奈良・平安時代の加賀・能登には、渤海国からの使節が来着し、志賀町富来の「福良津(ふくらのつ)」(福浦港)は、渤海国への出発港でした。

 

 

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