折口信夫・春洋父子 ゆかりの地

更新日:2020年07月07日

折口信夫・春洋父子にまつわる歌碑

折口信夫・春洋父子

折口信夫(左)・春洋(右) (写真:國學院大學折口博士記念古代研究所 所蔵)

折口 信夫(おりくち しのぶ)

明治20年(1887年)、大阪生まれ。
国学者、民俗学者であり、國學院大学と慶応義塾大学の教授をかねる一方で、歌人としても特異な才能を発揮しました。
門弟であった藤井春洋との出会いから、たびたび羽咋を訪れます。
昭和19年(1944年)7月、公私共に信頼をおいていた春洋を養子に迎えます。
昭和28年(1953年)9月3日没。遺骨は本人の希望どおり、春洋の眠る父子墓に埋葬されました。

折口(藤井) 春洋(おりくち はるみ)

明治40年(1907年)、羽咋市一ノ宮生まれ。
金沢第一中学校を経て、大正14年(1925年)國學院大學予科入学。
同時に折口主宰の短歌結社「鳥船社」に参加。
昭和11年(1936年)國學院大學教授に就任しますが、太平洋戦争で召集を受け、昭和19年(1944)7月硫黄島に着任。それと前後して折口の養子となります。
昭和20年(1945年)3月19日、硫黄島方面で戦死。38歳でした。

 

折口博士父子の墓(羽咋市一ノ宮町)

折口父子の墓碑

「もっとも苦しき たたかひに 最くるしみ 死にたる むかしの陸軍中尉 折口春洋 ならびにその 父 信夫の墓」

折口信夫が折口春洋(おりくち はるみ)の死を嘆き、自ら墓碑を選定、昭和24年(1949年)に春洋の生家藤井家の墓地に建てたものです。


 

折口信夫父子の歌碑(気多大社境内)

折口信夫の歌碑(右)

「気多のむら 若葉くろずむ 時に来て 遠海原の 音を聴きをり」

昭和2年(1927年)6月、折口が春洋ら学生を伴い、初めて口能登を探訪したときに詠まれた歌です。

藤井春洋の歌碑(左)

「春畠に 菜の葉荒びし ほど過ぎて おもかげに師を さびしまむとす」

昭和19年(1944年)、春洋が金沢駐屯中に面会した師の折口を思い、詠んだものといわれています。


 

折口博士の句碑(気多大社の裏手[池のほとり])

折口信夫の句碑

「くわっこうの なく村すぎて 山の池」

折口信夫博士没後10年にあたる、昭和38年(1963年)9月、的場町の高井松涛氏の寄進により、気多大社「入らずの森」裏手の池のそばに建立されたものです。
句は、昭和21年(1946年)4月に、折口信夫が大社焼の小皿に書いた句をもとにしています。


 

石川県立羽咋高等学校・校歌の歌碑(羽咋市柳橋町 羽咋高等学校敷地内)

折口信夫揮毫の校歌

折口博士揮毫の歌碑(折口作詞の校歌)

「沙丘に 朝の日ぞのぼる。みな出でて見よ 水や空。
深き心は海に得て 知識いよいよ明らかに、天つ空より ひろき胸 世にまじはらむ。輝やかに。
古國 能登に生いたち 使命は いよよ若わかし。ああ 新しき日本と、我等は在らむ。とこしえに」

昭和24年(1949年)7月、折口が春洋と自身の墓碑建立のため藤井家を訪問した際に、羽咋高校校歌の作詞依頼を受けたものです。学校に詞が贈られたのは、昭和26年(1951年)3月でした。


 

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