国指定史跡 寺家遺跡
「渚(なぎさ)の正倉院」国指定史跡 寺家遺跡(じけいせき)
寺家遺跡は、市内の寺家町と柳田町の海岸砂丘に埋もれた奈良・平安時代を中心とする祭祀遺跡です。
「祭祀(さいし)」とは、祭りや祈りのことを言います。
この遺跡では、古代の神社に関わるさまざまな発見がありました。
遺跡の発見
寺家遺跡は、昭和53年に能登有料道路(現在の「のと里山海道」)建設に関わる工事のさいに発見されました。その後、石川県と羽咋市によって、長い期間をかけて発掘調査が続けられ、範囲とその重要性が明らかとなり、平成24年に国の史跡に指定されました。
石川県による有料道路路線部分の発掘調査(1980)
何が発見されたのか?
古代の神社にかかわる祭祀の跡や、関連する施設の跡、使用された祭祀遺物が多数発見されました。
これらは、奈良・平安時代の地方神社のあり方を知るうえで、全国でも数少ない貴重な考古学的成果となっています。
祭祀の跡(祭祀場)
大きな火を焚いて祭祀を行ったとみられる大規模な焼け土の跡が発見されました。
全国的に他に類例のない発見です。
このほか、大量の土器(供膳具)と直刀・勾玉・銅鏡を用いた祭祀の跡も見つかっています。
遺跡のなかでも、祭祀専用の場所として利用していたと考えられます。
発見された大規模な焼け土の跡
関連施設群(竪穴建物群)
8世紀前半の竪穴式の建物群がたくさん見つかりました。
建物跡からは、銅鏡をはじめとするたくさんの祭祀遺物が出土しました。
こうした発見から、祭祀に従事する人々の集落跡と考えられており、古代神社に仕える「神封戸(じんふこ)」と呼ばれる人々の集落やその活動をうかがうことができます。
竪穴建物あとから出土した銅鏡などの祭祀遺物
関連施設群(宮厨と宮司舘)
9世紀代の複数の掘立柱建物が立ち並ぶ建物群が見つかりました。
この周囲からはたくさんの銅鏡をはじめとする祭祀遺物が出土し、「宮厨」と墨書された土器が見つかりました。
このほかにも、「宮」「司」「司舘」「奉」「神」などの文字が墨書された土器も出土しています。
これらの存在から、遺跡内には、祭祀をつかさどる「宮司」(みやのつかさ)が存在したと考えられます。
遺跡内には、祭祀の道具の保管や準備をするための厨施設(くりやしせつ)や、祭祀を管理する宮司の舘跡があったと考えられます。
「神」、「宮厨」と墨書された土器
祭祀に使用された道具(祭祀遺物)
遺跡からは、8世紀・9世紀の律令時代の祭祀に使用された銅鏡などがたくさん出土しています。
銅鏡のほか、銅製の鈴、飾り金具、刀装具、和同開珎などの銅製品のほか、鉄製の鏡や刀などもみられます。
さらに、地方ではほとんど出土しない、三彩陶器やガラス生産道具も見つかっており、この遺跡が当時の国家と関わりを持っていたことを示しています。
これらは、この遺跡で行われた祭祀で実際に使用された祭具であり、学術的に重要です。
さまざまな祭祀の道具とガラス生産関連資料
「渚(なぎさ)の正倉院」とは?
以上の発見は、奈良平安時代の古代神社がどのように存在し、どのような祭祀を行っていたのかを総合的に検討できる価値を持っています。
遺跡の発見当初、こうした古代祭祀に関わる遺構と遺物が続々と出土し、新聞等で連日発表されました。
こうした遺構と遺物が海岸砂丘の地下に非常に良好な状態で保存されていることから、奈良にある正倉院になぞらえて名づけられました。
何のための祭祀だったのか?
古代の能登半島は、東北の蝦夷やさらに北方民族がいる北方世界への海路の基地として重要視されていました。
また、日本海対岸の古代国家である渤海国との交流拠点のひとつでもあり、富来町の福良港がその基地でもありました。
古代の日本では、海外からの使節(蕃客)には、「異国の神」が付着して国内に入ってくると信じられていました。
使節は入京することもあり、その管理は国家にとって重要な課題でした。
寺家遺跡では、こうした能登を発着する使節に対して、その異国の神を祓うための祭祀儀礼を行っていたのではないかと考えられています。
古代気多神社との関わり
寺家遺跡は、発見当初から「古代の気多神社」との関連性が指摘されてきた遺跡です。
六国史をはじめとする文献史料をみると、古代の気多神社は、地方神社では非常に厚遇され、国家から重要視されていていました。
寺家遺跡で発見された考古学的成果は、その内容から、当時の国家が管理する「官社」として成立していたことをうかがうことができます。
これが文献史料の古代気多神社の記述と年代的な整合性が高く、寺家遺跡は古代気多神社に関わる祭祀を行っていた遺跡と考えることができます。
気多神社拝殿(国指定重要文化財)
周辺の関連遺跡群
能登半島の入り口にあたる羽咋は、日本海沿岸流に乗った古代文化の漂着地として、重要遺跡が成立する地理的環境に恵まれていました。
弥生時代には、いちはやく能登で稲作を開始した邑知潟周辺集落の拠点的集落と考えられる「吉崎・次場遺跡」が成立しています。
古墳時代には、滝地区、柳田地区、柴垣地区で多数の古墳づくりが行われ、なかでも「滝大塚古墳」は、日本海側でも屈指の大きさの大型帆立貝式古墳として知られます。
また、寺家遺跡と同時期の奈良時代には、古代白鳳寺院である「柳田シャコデ廃寺」が隣接していました。
さらに、この地域では、現在でも「能登国一宮気多神社」が鎮座しており、中近世の遺跡群や文書史料が豊富に保存されています。
寺家遺跡も、こうした歴史的空間のなかで成立した重要遺跡の一つと言えます。
空からみた寺家遺跡の範囲と関連遺跡群
寺家遺跡のこれから
羽咋市教育委員会では、この寺家遺跡の「保存管理計画」を策定しました。
この計画は、遺跡の価値や重要性を整理し、史跡指定地を現地に「保存」する方法と、将来の「活用」に向けた基本方針を示すものです。
遺跡の「保護」は、「保存」と「活用」により成り立っています。
まず、現地に遺跡を確実に「保存」しないことには、「活用」することはできません。
そして、「活用」して価値を知ってもらうことで、地元をはじめとする皆さんの意識を「保存」に循環させることができます。
この両者を結び付け、持続可能なものとするためには、史跡の「整備」が必要です。
「保存」するにも、「活用」するにも、現地の整備は不可欠です。
市内には、すでに国指定史跡「吉崎・次場遺跡」が遺跡公園として整備され、市内小学校をはじめとする多くの利用があります。
寺家遺跡でも、こうした環境整備をはかり、遺跡の価値や重要性を広く発信して「保存」と「活用」を進めていきます。
そして、その成果を地域のまちづくりにもつなげていきたいと考えています。
これらを支えるのは、今後の継続的な調査研究活動による価値の整理と把握です。
遺跡の価値を明らかにする調査活動を、地元の皆さんととともに進め、活用についても一緒に考えていきたいと考えています。
※『史跡寺家遺跡保存管理計画書』は、こちらのページからダウンロード・閲覧が可能です。
更新日:2019年11月26日