野村 直吉

野村 直吉(のむら なおきち)

 
野村 直吉

 
慶応3年(1867)9月7日、羽咋郡一ノ宮村(現羽咋市一ノ宮町)、西東勘右衛門・きよ夫婦の二男に生まれる。生家の屋号は「カンジャ」、父も長兄も北前船の船頭。学歴は不明だが、当時函館在住の実兄のもとで船乗りをしていたようである。
明治36年(1903)勉学のため上京。明治37年(1904)徴兵を受け、同37年・38年の日露戦争で御用船に乗組み、その功労により勳六等瑞宝章を受ける。独学により、明治42年(1909)5月甲種船長試験に合格。
明治43年(1910)6月、白瀬矗南極探検隊に応募して船長となり、自らも南極探検実現のため準備に奔走する。明治43年(1910)11月東京芝浦港出航、204トンの木造機帆船・開南丸を操り、今も鬼門に等しい南極圏に至る南緯40度、50度、60度の暴風圏を突破し、明治45年(1912)6月無事帰還。
生還後は、その腕を評価されたようで、遠洋航路の船長を歴任した。大正11年(1921)6月、病気のため汽船会社を退職。降船後は会社を設立し、築湾関係の仕事や埋没金などの宝捜しを試みたようだが、結実しなかった。昭和8年(1933)、東京の自宅で病気のため没した。享年67歳。
 

野村直吉年表
年号 西暦   できごと
慶応3 1867 9.月7日 羽咋郡一ノ宮村字一宮子ノ75番地に直吉生まれる
明治27 1894 4月18日 兄勘吉らと滝屋神社に絵馬奉納(西村屋・国宝丸)
明治29 1896 12月10日 塩谷はつと結婚
明治36 1903 11月11日 勉学のため上京(36才。この頃までに青森の野村金史と知り合う?)
明治37 1904 5月16日 徴兵、青森に帰ってから軍務に就く
    11月27日 陸軍輸送船「須磨浦丸」の2等運転士ほか御用船にて従軍か(軍功により、直吉は勳六等瑞宝章、勘吉は金鵄勲章)
明治42 1909 4月27日 長崎の高等商船養成所で日本海掖会入会
    4月28日~ 高等商船養成所に通う
    5月21日 甲種船長試験合格
明治43 1910 6月3日 萬朝報新聞にて白瀬中尉の南極探検計画を知る
    6月23日 白瀬中尉と面会し、探検参加を申し入れる(43才)
    11月29日 南極探検へ出航
明治44 1911 5月1日 南極上陸を断念してシドニーへ入港
    5月17日~10月18日 再征資金調達のため多田書記長と一時帰国
    11月19日 再挑戦のためシドニー出港
明治45 1912 1月28日 白瀬隊長ら、大和雪原に日章旗をたてる。開南丸は沿岸調査を実施
    2月4日 南極鯨湾出港
    6月20日 芝浦港へ帰還
大正元 1912 8月27日 塩谷はつと離婚成立
大正7 1918 9月17日 南洋汽船会社に入社
大正8 1919 2月16日 相沢汽船へ入社
    4月1日 航海中、急病のため愛媛県松山赤十字病院に収容される (5月12日退院、帰京)
大正11 1921 6月 相沢汽船退職(54才)
昭和6 1929   出世社を興す
昭和7 1932 5月25日 発病(糖尿病?)。瀬田鶴吉宅、田中先達宅で療養
昭和8 1933 10月17日 東京都足立区千住本町にて死去

 

更新日:2020年01月14日