東 善作
東 善作(あずま ぜんさく)
明治26年(1893)9月25日、東長松・八重夫妻の二男として、羽咋郡南大海村字中沼(現かほく市中沼町)に生まれる。幼少の頃、母親の実家の一ノ宮村へ移住。その後、伯父が住職を務める西教寺(現羽咋市一ノ宮町)に預けられ、一ノ宮尋常小学校から羽咋高等小学校を卒業した。
卒業後一ノ宮村役場給仕となるが、翌年事業家を夢みて朝鮮へ渡る。しかし、学問の必要性を感じて帰国。京都中学編入の後、岡山県の関西中へ転校し、人力車夫をしながら苦学して卒業する。
新聞記者となり、アート・スミスの曲芸飛行を取材したことがきっかけで飛行家を志し、大正5年(1916)に渡米。労働で高額な学費を稼ぎながら、アメリカの飛行学校を卒業する。
大正12年(1923)の関東大震災に際しては、ロサンゼルス市上空からビラをまいて、 日本救援を呼びかけた。
昭和5年(1930)、日本人初のアメリカ・ヨーロッパ・アジアの三大陸横断飛行に自費で挑戦、無事に立川飛行場に降り立った。
昭和30年(1955)、ウラン鉱として有名な人形峠(岡山・鳥取の県境)を発見。同32年(1957)に会社を設立したが、 昭和42年(1967)、74歳で没した。
年号 | 西暦 | できごと | |
---|---|---|---|
明治26 | 1893 | 9月25日 | 羽咋郡南大海村字中沼(現かほく市中沼)に生まれる |
明治33 | 1900 | 4月1日 | 羽咋郡一ノ宮村尋常小学校入学 |
明治37 | 1904 | 3月29日 | 一ノ宮小学校(4年制)卒業 |
明治41 | 1908 | 3月29日 | 羽咋高等小学校(4年制)卒業 |
8月 | 一ノ宮村役場給仕となる | ||
明治42 | 1909 | 4月 | 実業家を夢みて朝鮮馬山浦新同洞へ渡る(16才) |
明治44 | 1911 | 進学を志し帰国 | |
大正元 | 1912 | 9月 | 京都市京都中学校4年に編入 |
大正2 | 1913 | 岡山県関西(かんぜい)中学校へ転校 | |
大正5 | 1916 | 5月4日 | 金沢「北陸毎日新聞社(現北国新聞社)」入社 |
5月21日 | 金沢の野村練兵場でアート・スミスの曲芸飛行を取材 | ||
10月22日 | 飛行家を目指し渡米(23才)。オークランドのデュランド飛行学校入学 | ||
大正7 | 1918 | 4月 | 第一次世界大戦勃発によりアメリカ陸軍航空隊へ志願、約1か年で除隊 |
大正9 | 1920 | 1月 | デュランド飛行学校卒業(26才) |
クラーク水上飛行学校の助手となる | |||
大正10 | 1921 | 10月7日 | クーパー高等飛行学校で国際高等ライセンスを得る このころより「日本人の手による飛行学校創設」を計画 |
大正12 | 1923 | 9月8日 | 関東大震災で被災した母国のため、「HELP JAPAN」と横書した愛機で連日自費印刷した救済ビラをロサンゼルス上空に散布し、義援金を日赤を通じて日本へ送金する |
大正14 | 1925 | 6月 | サンタバーバラ大地震おきる――初の取材飛行に成功。このころ「日本航空界を刺激する方法」を考えはじめる |
昭和4 | 1929 | 7月2日 | 三大陸横断飛行に飛び立った飛行機仲間の後藤正志が事故死 |
昭和5 | 1930 | 4月30日 | 三大陸横断飛行を自費で実行すると発表 |
6月22日 | 米・欧・亜三大陸横断による14年ぶりの祖国への訪問飛行を決行、ロサンゼルスを出発<行程 18000キロ・日数 70日> | ||
8月31日 | 東京立川飛行場に無事着陸(37才)。日本人の意気を世界に吐く | ||
昭和9 | 1934 | アメリカでの生活を精算し帰国。航空学校設立に奔走(ほんそう)する | |
昭和12 | 1937 | 4月 | 衆議院選に立候補するが落選 以後東京に在住、商事会社を営み、戦後はアメリカ在郷軍人であることから、GHQ出入りの御用商人を勤める |
昭和28 | 1953 | 4月 | 雑誌『リーダーズダイジェスト』の記事「ウラニウムは人である」に魅せられて日本のウランを捜すことを思いつく |
昭和30 | 1955 | 3月 | 小鴨鉱山の人形峠でウラン鉱脈を発見 |
昭和32 | 1957 | ウラン鉱業株式会社設立 | |
昭和38 | 1963 | 3月 | 妻寿々発病、翌年死去。遺骨は東京上空よりまく |
昭和41 | 1966 | 10月 | 善作発病。三井厚生病院に入院する |
昭和42 | 1967 | 10月11日 | 74才で死去。妻寿々と共にかほく市の東家の墓に永眠。遺骨の一部は一ノ宮海岸にまかれた。 |
更新日:2022年03月18日